ロバート クーヴァーの小説「ユニヴァーサル野球協会」のカント「判断力批判」からの引用元を特定

当該小説(注1)の冒頭、に下記が記されています。

ここではそうした原型的知性。。。。が可能であるということを証明する必要は全くない。

私たちがその理想イデアへと導かれてゆくことだけを証明しさえすればいいのた・・・・。
カント「判断力批判」

と書かれても、

「原型的知性」が何を意味するのか
なぜ、「原型的知性」の理想へと導かれてゆくことを証明すれば、可能であることを証明する必要がなくなるのか
わかりませんでした。前後の文脈を知りたいと考え、岩波文庫版「判断力批判」の索引から「原型的知性」であたり、下記を見つけました。

それだからここでは、かかる原型的知性(intellectus archetypus)[直感的悟性]が可能であることの証明はまったく必要でない。我々は形像を必要とする我々の論証的悟性(intellectus ectypus 模型的知性)とその性質における偶然性とをこの原型的知性と突き合わせつつ、かかる(原型的知性という)理念に到ることを証明するだけでよい。この理念は、それ自身なんら矛盾を含むものではないからである。
「判断力批判」 篠田英雄訳 七七 自然目的の概念は人間の悟性の特性によって我々に可能となる。そこで人間悟性のかかる特性について

解読を試みたのですが、よくわからず、近年「判断力批判」は何種類か訳がでているので、改めて読んで、何かわかれば、また続きを書きたいと思います。

(注1)

この作品でクーヴァーは、野球を枠組みにして、ハッとするようなアングルからアメリカの文化、歴史、そして政治を踏査する。しかもその道々、彼は人と神との関係や、世界を少しでも理にかなったものにするために作り上げられたさまざまなフィクション装置(たとえば神話や文学、哲学、宗教など)の巧みで鮮烈なメタファーをも顕出させる。主人公は孤独な中年男(その名もJ・ヘンリー・ウォー。これは旧約聖書に出てくる神「Yahweh」をもじったもの)。彼は毎晩のようにお手製のミニチュア野球ゲームで遊ぶ。凝ったサイコロやチャートを使いながら展開される「盛り上がったゲーム」。試合前後の出来事も含め、彼の想像力は実に見事にゲームを現出させ、彼の「リアルな生活」と比べても遜色がない。大衆文化に大きく依拠しているという理由で、出版当初はほとんど無視されていたこの作品、今日ではアメリカで出版さえた最も偉大なスポーツ小説として、またAP時代を規定するメタファーの一つとしてスポーツをAP探査するための地ならしをしてくれた作品として広く認識されている。

「アヴァン・ポップ」ラリイ・マキャフリイ著 の「アヴァン・ポップ101」の「文学(フィクション、演劇、詩。コミックス)」の「ユニヴァーサル野球協会 The Universal Baseball Association (ロバート クーヴァー、一九六八年)」から抜粋


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